我が国最初の宿泊施設は、平安時代にあった「布施屋」なる宿泊施設だといわれています。 平安時代に律令制度が制定されると、租税を都まで輸送するために、何十日も掛けて徒歩で移動しなくてはならなくなりました。道中は食料調達自体が困難で、野宿しながらの移動は命がけ、途中で飢餓や病で亡くなる者が後を絶たず、社会問題となります。それを解決するために全国の寺院等が中心となって創設されたのが「布施屋」です。当初の宿泊施設は、律令国家存続に必要な税の供給を確固たるものにする基盤として登場したのです。そのため、現代でも宿泊施設としての監督官庁が運輸省(現:国土交通省)となっております。
永らく一般庶民の不要不急な移動は禁じられていましたが、江戸時代になり唯一許されるようになったのがお伊勢参り。人々は、その移動のついでに「物見遊山」をしたり「地産池消飲食」を楽しんだりと、道中で「観光」を行うようになり、宿泊施設においてはおもてなしの概念が発達してまいります。 また、もともと一部の限定的な階層にのみ治療として利用が許されていた「湯治」が、閑散期の農民の娯楽・休養として解放されるようになり、宿泊自体を目的とする宿による「競争原理に由来するおもてなし」が出現しはじめました。 我が国の宿泊施設は、単なる宿泊機能から、観光と癒しを目的とする宿泊概念がプラスされるようになりました。 泊まることそれ自体がステイタスという概念も、この時代の「一生に一度の旅」というステイタスから受け継がれているものと考えられます。
明治時代の開国により、日本は近代化を是とし、日本に持ち込まれた諸外国の先進的な文化・技術等が重要視されるようになりました。その知識を保有する諸外国の人々が滞在する場所として「ホテル」が登場し、文明発展の象徴たる西洋文明の窓口として、最先端の文化が発信される場所として認識されるようになりました。 一方、「旅館」は活きた日本文化の実体験が可能な場所の代表として価値を高めていきました。 さらに日本の近代化が進むと、ホテルは西洋文化窓口としての役割から、活きた文化の発信基地として、官民イベント開催の中核を占めるようになります。 現在でも、地域活性化にあたって観光を考える際に、宿泊施設が中核となるのは、情報の発信基地のポジショニングが自他ともに認められているからに他ならないのです。